日本の武士・紀州藩士、政治家、外交官。「カミソリ大臣」と呼ばれ、外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。江戸時代までの通称は陽之助。
経歴
弘化元年(1844年)7月7日、紀州藩藩士伊達宗広(伊達千広とも)と政子(渥美氏)の六男として生まれる。幼名は牛麿(うしまろ)。生家は伊達騒動で知られる、伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫。伊達小二郎、陸奥陽之助と称する。国学者・歴史家としても知られていた父の影響で尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀州藩に仕え財政再建をなした重臣であったが、宗光が8歳のとき(1852年)藩内の政争にやぶれて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活がおとずれた。
安政5年(1858年)、江戸に出て安井息軒、水本成美に学び、土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。
文久3年(1863年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867年)には坂本龍馬の海援隊に加わるなど始終坂本と行動をともにした[1]。龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。
明治維新後は外国事務局御用係[2](1868年)、兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞した。この間、明治5年(1872年)に蓮子夫人が亡くなり、翌年に亮子と結婚している。大阪会議(1875年)で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。
明治10年(1877年)の西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆[3]を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡[4]を取り合っていた。翌年にこのことが発覚し、除族のうえ禁錮5年の刑を受け、投獄された[5]。
明治16年(1883年)1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する[6]。 明治19年(1886年)2月に帰国し、10月には外務省に出仕した。明治21年(1888年)、駐米公使となり、同年、駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコ合衆国との間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。
帰国後、山縣有朋内閣の農商務大臣に就任。明治23年(1890年)、大臣在任中に第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第1区から出馬し初当選を果たし、1期を務めた[7]。
明治24年(1891年)に足尾銅山鉱毒事件をめぐり、帝国議会で田中正造から質問主意書を受けるが、質問の趣旨がわからないと回答を出す(二男潤吉は足尾銅山の経営者、古河市兵衛の養子であった)。同年5月成立した松方正義内閣に留任し、内閣規約を提案、みずから政務部長となったが薩摩派との衝突で辞任した。11月、後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力をえて日刊新聞『寸鉄』を発刊し、みずからも列する松方内閣を批判、明治25年(1892年)3月、辞職して枢密院顧問官となる。
その後、第2次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任[8]。 明治27年(1894年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結[9]。 幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する[10]。 同年8月、子爵を叙爵する。
一方、同年5月に朝鮮で甲午農民戦争がはじまると清国の出兵に対抗して派兵、7月23日朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始、イギリス、ロシアの中立化にも成功した[11]。
戦勝後は伊藤博文とともに[12]全権として明治28年(1895年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。
これ以前より陸奥は肺結核を患っており、三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議がおこなわれたのは、すでに兵庫県舞子で療養生活に入っていた陸奥の病床においてであった。明治29年(1896年)、外務大臣を辞し、大磯の別邸[13]やハワイにて療養生活を送る。このあいだ、雑誌『世界之日本』を発刊している。
明治30年(1897年)8月24日、肺結核のため西ヶ原の本邸(旧古河庭園)にて死去[14]。享年54(満53歳没)。墓所は鎌倉の寿福寺。
エピソード
若かりし頃の陸奥は、雑踏の中を他人とぶつかることなくすり抜けることに長けていたといわれている。後妻の陸奥亮子は「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」と呼ばれた美貌の女性である。陸奥宗光が、藩閥打倒、議会民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺公望は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが…」と言って、周囲の見る目も痛わしいほど落胆したという。陸奥の言葉…「政治はアートなり。サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」坂本龍馬が船中八策を西郷隆盛に提示した際、「わしは世界の海援隊をやります」と発言した場に同席し非常な感銘を受け、後世ことあるごとに回想を語ったとされている。しかしこれは西郷と龍馬のやりとりも含めた後世の創作らしい。